永治談話室

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2020.03.10永治逸話

親父と私(『日本一』6巻4号、1920年4月1日)

今年は親父の十三回忌にあたる。それでその思い出を書こうと思う。読者諸兄にも編輯者先生にも迷惑な事かもしれないが、御贔屓の余慶を以て許して頂き度い。
 興味中心の漫画家には、親父と叔父のケジメはない。思うところ行く所、手当り次第に描きなぐるを名誉第一と心得ている。
 親父を売ると叱る人があったら、私の親父はそんな沒文漢ではなかったと云ってやりたい。人情は今も昔も変りはないが、親と子が敵味方となって、功名を争う話はいくらでもある。それ以上必迫した現代の生活、友を売るのが当世向の才子だからあきれる。
 その上これで原稿料が貰えて、一本の花でも余計に親父に供えたら、これ以上の孝行はない筈。しかも雑誌は日本一、私もどうやらそれに載る程、立派な漫畫家になつたのは、これもひとえに親父の御影、罪は却って漫画家をこしらえた親父にある。
 親父は加州百萬石の城下の、小間物屋の息子だ。誰もが先祖を誇るけれども親父はドヱライ物持ちでもなんでもなかったから、鑛山で損をしたり、番頭に使い込まれる事もなくて、至極平凡な息子で親父は大きくなったらしい。そして八百屋の娘を嫁にして京都へ出た。それが想いあったでもなんでもなく、偶然だから昔の人は大胆だつた。婆が勝手に選んだのだから婆は氣に入つたが、親父はそれ程喜ばなかった。それでも私という者が出来たからまこと奇蹟だ……。

 親父はその前にも一度京都にいた事があった。その時先斗 町の藝者を嫁にしたが、親父がなまけ者なのに愛想をつかして、何所かへ遁げて了ったそうだが、それでも親父はその女を愛していたとか。何にしても、私は芸者を母にしないで、親父の子になれたのは天祐だつた。その第一の母は?、どんな女だか一寸見たい様な気もする。親父を捨てて遁げた女、せめて一太刀、親父の恨を報いてやりたい。
 親父は西洋木彫を掘る処に新しい版式を研究したからその頃でのハイカラであった。誰よりも上手、名人と自負していたから鼻息も荒かった。誰れでもかまわず攻撃したから憎まれたが、そのうちに愛嬌があり、稚気があったので、他人もそれにはさからわなかったそうな。


 ある女に思いをかけたが、とうとうそれが郵便局長の妾になったので憤慨した。その腹癒せに京都中の郵便箱を一晩のうちに引繰り返してしまった。勿論それには弟子達も大勢手伝ったとか、随分茶目をやったものだ。親父の写真がただ一枚あった。その元気のよかった頃の親父の写真が只一枚あったのを私が先年伊豆に遊ぶとき、一所に連れて行くつもりで、革鞄の奥にしのばせておいたが、とうとう何所かへとり落して了った。女の写真なら拾ってくれる人もあろうが親父の写真じゃうかばれまい。
 親父は今の私の年に私をこしらえてくれたが私には子はない、女房もない。だから親父は私より偉かったにちがいない。
 その親父は大酒を呑んだが、率直で正直で、癇癪もちだった。話がはずむとよく吃って相手を困らせた。
 親父は自分で「いい男」を以て許していたが、私が覺えてからの親父は、そう立派な男というでもなかった。
然し私が今迄で知つている男の中で一番男らしい男、印象の深い男は親父だからおもしろい。


 親に似ぬ児は鬼の子というが、まこと私は鬼の子のように醜 男にこしらえられた、けれども何所かに親父の面影があるので耐らなく懐かしい思いがする事もある。晩年の親父は穢かったが、そ
れが今の私の何所やらに見えるので「うれし我影の父に似て悲し」と駄句って見た。季題がないから新派の句かもしれない、もしそれでもいけないという人があったら、取消し取消し……。
 親父は子供を可愛がった。だからわたしの様な馬鹿息子が出来た。私の後に幾人も子供が出来たので、私の領分は次第に荒らされて行った。私はすっかり悪ゴスイ子になった。

 髯を剃つたあとの親父はきまって、氣嫌が悪かったので、家の者は皆びくびくしていた。
叱る時には誰彼の容赦なく、かためておいてこきおろした。夜が更けていても頓着ない。寝ている私をたたき起して、寝着のままで其所へ坐らせる。それが夏冬なしに、大抵五日目ごとに始まるのだから耐らない。それよりも叱られる資格のない者まで起されて傍聴させられるのだから耐らない。それから母、お弟子、居候と、順々に傍杖を喰わされる一わたりすむと寝ろと云う……それで放免になる。
 お酒にほてった赫い顔、吃り乍ら叱りつける怖い眼の親父を、私は今でも思い出す。
 親父は人を叱り乍ら御酒をのんだ。叱るのを肴に酒を呑んだ。
 親父は又変ったものを食べたがった。イカモノ喰いの連中がそれをとりまいていた。
 或時他から河豚を送って来た、早速仲間に通知してやったが、その時まで喰いたがっていた連中もその日は顔を見せなかった。それでも親父を中心に二三人決死の士が料理の出来るのを待っていた。


 母は心配した。私も心配した。それで誰かの話を思い出して、密つと鍋の中に、塩を沢山投げこんでおいた。
それが効を奏したのか一同無事に命拾いをしたがその料理が不味かったので、親父は客が帰ってから、うんと母を叱りつけた。あとで聞くと、親父自身が塩をうんときかせた上へ、母がまたうんと交ぜたのでこんな結果になったのだ。
 そんな時、ぷいと飛び出すのが親父の癖だった。どつさり残った河豚の肉は塩の塊の様に鍋の中に尖つていた。
 親父は三日も四日も家をあけた。母は心配して、弟子を迎えに出すが帰って来ない。又一人、そんなとき、私は俥にのせられて迎えに行くのにきまっていた。
 親父は木乃伊とりの連中と一所に醉ってゐた。こんな時の親父は、家にいる時の親父とまるでちがっていた。
 漸つと私が親父を連れて帰ると、そのあとから弟子達がぞろぞろと帰って来る。
それからの二三日、親父は頭がおもいと云って床についていた。

 家のうちは何となく空気が荒だつて、たえずごたごたしていた。そのうち親父の頭痛がなおると、又何処かへ行つて了う。
 弟子を尋ねにやる。又私が迎えに行く……前と同じ事を繰り返していた。
 その頃が親父の黄金時代だった。それからは、だんだんいけなくなった。いろいろと失敗、ごたごたが多くなった。
 親父はすべての失敗を母の所為にして、さかんに我儘をはじめた。呑み廻った。
 或時、私は又親父を迎えに行つた。漸と連れて帰る事になったのだが、親父は足を踏みすべらして、階段の途中から落こちた。大勢寄って来て介抱してくれた。親父はやっと息を吹き返した。此の時くらい、私は親父を軽蔑した事はなかった。この儘死んで了え……勿体ない事だがそう思った。
 親父はそれから疝氣もちになった。よく腰が痛むと云っていた。
 この苦い経験を見せられた私は、とうぜん御酒嫌いとなるべきであるのに、矢張り御酒が好きで、イカモノ喰いであるという事は、自分でもなさけないことに思っているが、これは私の故斗ばかりではない。
私はそれを遺伝のセヰにしている。大酒飲のお弟子達をそれぞれ他へやって了って、ひたすら負債の穴埋めにのみあくせくしていたらしかった。

 或年のくれ、大晦日の夜、私は親父のあとについて出掛けた。親父は或家へ金の才覚に行くというので、家には幾人も借金とりがつめかけて来ている。私は子供心にどうなる事かと心配していた。その道々、或橋の上にかかった時、いい月だなあ……と親父は云った、わたしは何時でも総ての物を客観しているだけの余裕をもっている……御酒を飲むかなあ……。私は親父が川へ飛び込みはしないだろうかとさえ思っていたので、この言葉に少からず度胆を抜かれた。麒麟も老ゆれば駑馬に劣る…。それにしても親父の後姿のさびしさが今も思い出される。

 親父は三日の病気で死んで了った。私達には何一品残しておいてくれなかった。それもその筈、私達が親父の財産のすべてであった。親父は死ぬ迄医者を嫌ったので持て余した。あんな者に何が解る…こう一口に悪口した。其頃の私は又芝居気があったので、友達の家に行って水垢離をして親父全快を祈ったが駄目だった。それ以来神も仏も医者も、私には信用がなくなった。
親父は又、生臭坊主を嫌ったので、その葬式には来てくれなかった。そこで私が引導を渡す役廻りになった。親父の年まで私が生きてもあと二十年しかない。したい事、見たいもの、食いたいものが山程ある。これはうっかりしていられぬと思いついたのは、亀の甲より年の功だが、自分ではまだ大人になった様な気もちがちっともしない、矢張り昔と同じ事で、雷様が怖くて塩からが嫌いで、母が好きだ。(了)

 

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